本文へスキップ

幽玄の伝統を正しく受け継ぐ 武田流騎射流鏑馬

武田流騎射流鏑馬についてtakeda-ryu

武田流騎射流鏑馬は、熊本県重要無形文化財です。

流鏑馬について

弓の道には地上で射る“歩射”と馬上で弓を射る“騎射”とがあります。

騎射は「天下泰平・万民息災・五穀豊穣」を祈願して三つの的を射る流鏑馬、戦勝祈願として懸けた笠を射る笠懸、犬を追って射る犬追物の“三つ物”がよく知られています。中でも流鏑馬は騎射の代表であり、平安時代には朝廷で公家の儀式として、鎌倉時代以降は武士の武技の修練として盛んでした。

今日、流鏑馬は豊穣祈願の祭礼として各地に残っていますが、時の流れとともに本来の形を失ったものが多いようです。

武道としての流鏑馬は、源氏の流れを汲む肥後の武田流(細川家)と小笠原流(徳川家)によってその正伝が護持されています。


武田流について

今から約1100年前の900年頃の平安時代に、清和天皇の皇子、貞純親王から源氏七代に伝わった後、武田・小笠原の両家に分かれました。武田流は惣領家の若狭武田家24代の信直から、婚姻関係にあった細川藤孝(幽斎)を介して、家臣の竹原惟成に直伝されました。細川忠興から忠利が肥後に入国後は竹原家が宗家師範としてその一切を受け継ぎました。

藩学の時習館時代には、武田流の流鏑馬は二条流和歌式や礼法と共に行われていました。

昭和9年(1934年)以降は、熊本藩主細川家代々を祀る出水神社で奉納されています。


竹原少左衛門家について

竹原少左衛門家初代の市蔵(惟成)は9歳で細川藤孝の小姓として丹後国宮津で故実の指南を受けました。その後藤孝の命で若狭武田信直から流鏑馬を習い始め、慶長15年、武田流の弓馬故実を27歳で相伝されました。

以後武田流は、竹原家を宗家師範として継承され、弓馬軍礼故実の伝統は、竹原家以外には如何なる事があっても出すべからざることは御伝統の口伝となりました。

竹原正文が昭和36年、流儀の技術保持者として「熊本県重要無形文化財」の指定を受けました。昭和46年没後は、竹原陽次郎が当保存会を設立し、昭和50年には、団体として文化財の再指定を受けています。

竹原陽次郎の逝去後(令和4年)現在は、竹原浩太が宗家師範を継承しています。

初代(32代)  竹原 惟成
6代 (37代)  竹原 惟親
13代(44代) 竹原 陽次郎(惟賢)
14代(45代) 竹原 浩太(惟愛)


演技について

天長地久式

師範は「世の平和と人馬の健康、そして豊かな実り」を祈願するため、口伝の呪文を唱えながら天空と大地に向かって鏑矢を射る仕草をします。これは武田流流鏑馬において最も重要な厳正かつ神聖な儀式であり、騎射を始める前に神前にて執り行われます。

  

流鏑馬式

流鏑馬式では天長地久式とは異なる神頭矢を用います。的は三ヶ所で約三十間(54m)毎に置き、馬は全長約210mの馬場を約20秒で駆け抜けます。この間、射手は手綱を放した状態で射を行うので相当の熟練と胆力が要求されます。


木馬体配

木馬の一回転で矢を一本射ますが、その時間は馬が実際に的と的の間を駆ける速さとほぼ同じです。この木馬体配は、流鏑馬の基本の作法と騎射で最も難しい「矢抜き」「矢番え」の練習や和鞍の乗り方を体得するのには絶対に欠かせません。雨天時はこの木馬体配にて奉納を行います。

礼法について

礼式(作法)は、相手に対する尊敬の心、暖かい心配り、物を大切丁寧に取扱うこと等のゆかしい心を、美しい流れの形で表されたものです。細川流礼法は、武田流騎射流鏑馬と共に竹原惟成が細川忠利公より「軍礼故実作法」の伝統の一切を継承せしめられてより、代々竹原家で継承しています。

10代目竹原惟路の娘、千喜(11代妻)は明治から昭和の初年代まで尚絅高等女学校の作法教師としてこれを伝えるとともに、その時代の一般の子女にも広く伝えてきました。その後太平洋戦争や社会情勢の変化等で暫く途絶えましたが、昭和45年熊本女子商業高等学校に礼法同好会がつくられてより、平成3年まで竹原操子師範(12代妻)がこの流儀を伝えました。

現在は、一般の有志の方々に流儀を広く伝えるため、竹原惠子師範(13代妻)が幽玄館道場にて礼法教室を開いています。


寄託資料

資料名:竹原家文書
数 量:561点(冊)
期 間:平成25年3月5日〜平成30年3月5日
預かり:熊本県立図書館




武田流流鏑馬保存会

〒862-0971
熊本市中央区大江1丁目28-32

TEL 090-8837-3223